手作り



わたしは厚顔無恥で無神経でreenex 效果はあるが、逆に、非常に臆病でもある。
なので、自分で機嫌よく、自分のこねくり回した屁理屈に、うん、うん、そうよね~と、自画自賛しつつ、
無理やりにでも、自分を肯定する。
一種の自作自演の宗教である。


臆病と自分のことを言ったのは、自分の自己満足・屁理屈が否定されると、こころを痛めるからだ。
人のこころを痛めることにはさして細心の注意を払わないのに、
自分のこころが痛められることには、非常にきりきりと痛み、不安を感じる。
鋭い切り口で、構えていないところに、不意に、ぐさっと斬られることがあるので、(しかも正論)
そういうブログには最近、行かないことにしている。


それとは正反対に、ちょっとおとぼけのブログ、ツッコミどころ満載のブログは、
「そりゃあ、ないよなあ」と、ほのぼreenex 效果のして、気が休まる。
切れ味鋭いより、切れないバターナイフで、豆腐を切っているのがいい。
自分のことか?


・・・


話を自作自演の宗教に戻すと、・・・


義母などを見ていると、こねくり回す過程などは一切いらず、ショートカットして、最後のところの自己肯定のみ。
労力、時間の効率化が図れて、非常に合理的だ。
その省エネ分、エネルギーを蓄reenex 效果えられ、祈りもパワーアップ。


ショートカットするにも、「手引き」というものがある。
それは、信仰だ。


プロセスはよくわからないけれど、言われた通りにしていれば、なんか、幸せになれるらしい。
例えば、儀式的なこと。
1日何回、あれをしてこれをして、季節に応じた行事は、あれをしてこれをして。
天国と現世を結ぶプロ導き人(お坊さん、お寺さん)には、お布施やらなんやら、チップよりは大きなお金を差し上げる。
お経の意味もわからなくても、とりあえず、唱える。
外国語をまるごと暗記して、好きな歌を歌うのと同じ。御詠歌は、ゴスペル。
これは、非常にわかりやすくて、大勢の地域の人たちも同じコトをしていて、
自分のしていることは、ごくごく通常、普通一般、生活の一部だと、なんの疑いも迷いもなく、
澄んだこころを一心に捧げられる。


ある意味、うらやましい。
幸福へのプロセスは、丸投げ。
おまかせ状態。
労力的、金銭的、時間的には、捻出が大変だが、精神的にはお手軽。
考え出さなくてもよい。(むしろ、考えると、従えなくなる)
だから、信者様というのは、多いのか。



ひとつひとつ、自分で作っていたら、たいへんだ。
例えば、服。
ベランダでコットン材料となる植物を栽培したり、
あるいは、屋根裏で蚕(かいこ)を飼い、蚕の繭から絹を頂戴し、
それらから糸を作り、布を織り、
ボタンも貝殻や木を加工して作り、一枚の服を材料から何から何まですべて手作り。
そこまでしなくても、手芸キット(セットしてあるもの)を買ってきて、手作り感を楽しむのもよいだろう。
(栽培するのに、肥料までこだわり、自分で作ったり、蚕の品種改良したり・・・
となると、結論より、プロセスそのものを楽しむコースも、ありかも知れない)


それはそれとして・・・
一から作るのは、横井庄一さんのような洋服職人の方なら基礎スキルがあるだろうが、
経験、知識ゼロでは、なにから、どこから始めていいのかわからない。
そこで、学校で、道徳やら倫理やらを習う。
(この部分に国の意図的思惑を知らず知らずに盛り込まれると、怖いだろうなあ)