クーのこと


あの辛くて苦しかった3月3日からずっと、春の陽気に恵まれた晴天が続きます。


クーは、翌日3月4日に、荼毘免疫系統に付されました。
一晩経過した遺体は、筋肉が緩むのでしょうか、
険しかった表情がウソのように、穏やかな優しい可愛いものに変わっていました。
体は冷たく硬くなっても、豊かな被毛はしなやかでつややかなままで、
その横たわる姿は、普段の寝姿となんら変りなく、
今にも起き上がって欠伸しそうな、そんな錯覚を覚えました。


見晴らしの良い、ペット専用火葬場で、雲一つない青空に向かって、
細い煙が昇ってゆきました。
残された真っ白な骨を、私と長男で拾って、
小さな美しい骨壷に納めて、我が家へ連れて帰りました。


49日が過ぎたら、クーが大好きだった庭の岩のそばに、埋めてあげよう。


クーは、心筋症で、その明確腦部發展な症状が出たのが2月9日でした。
後足が一時的に麻痺し、麻痺はすぐ治ったものの、
それ以降、呼吸が早くなり、日を追って弱っていきました。
人目を避けて、ずっと、じっとしていました。


もがき叫ぶほど苦しかった、最後の9時間、
時々正気に返って、シャンと起き上がって周りを見回す姿が、立派でした。


気性が真っ直ぐで、誇り高く、寛大で可愛らしく、聡明な猫でした。


毎朝、小走りに駆けてきて、必ずその日一番の爽やかな態度で、
「おはよう!」
と、挨拶しました。私は、
「ああ、なんて前向きなんだろう。猫ながらタイプ3だなあ」
と、感心したものです。


4歳の時、子どもを産んで、それも安産で育児上手で感心しましたが、
それ以降の、幸せオーラの強さには圧倒されました。


外見も、ゴージャスで神々しい美猫でしたが、
何よりも、発せられる幸せオーラの強腦部發展さに、
私は、どれほど心救われたか分かりません。


今年の冬、必ず家族のヒザの上に乗って甘えてきたのは、
体調が不安で、お別れの予感があったからでしょうね。
その表情は、
「ありがとう。私、本当に幸せだったよ。
 もうすぐ逝くけど、どうか忘れないでね」
と、言っているようにしか見えず、
「クーちゃん、長生きしてね」
と、抱きしめるしかなかったのです。


忘れ形見の娘猫・まりニャンは、雑種なので、毛触りも容貌も異なりますが、
唯一、目がクーとそっくりです。
2匹に同時に見つめられると、
「同じ顔してる」
と、思ったものです。
まりニャンの目を見て、これからもクーを偲ぶことでしょう。

愛犬ハナは幸せだったか


12月になると、目や耳だけでなく、鼻も利かなくなって、
口先にある食物は食べるけれど、わずか数センチずれると、
好物が目の前にあっても見付けられなくなってしまう。


声を掛けても、全く無反応。
コミュニケーションの手段は、
撫でたり、抱いたりするボディータッチのみ。
尾は下に垂れたまま、11月以来、二度と振られることはなかった。


1月に入ると、それまで旺盛だった食欲が、減退する。
ときどき、食餌を残すようになる。
それでも、翌日にはペロリと完食した。


足腰は丈夫で、毎日散歩もするし、
内臓も健康で、排尿排便に異常がないため、
「ああ、このまま半年くらいは生きるだろう」
と思っていた。


それが、2月のある日、連続して2日餌を食べなかった。
それどころか、水も飲めない。
「猫用のサカナ缶なら!」と思って与えてみると、
大喜びで飛びつき、長い時間かけて食べようとしたにも関わらず、
全く食べられなかった。
どうやら、嚥下ができないらしい。


せめて水だけでも、とスポイトで与えたが、
ほんの少ししか受け付けない。
固く閉じられた口は、頑とした拒否を示していた。


  ああ、大自然が、この命を閉じようとしている――
  無私にそれを伝えるハナが、とても崇高に思えた。


ハナは、水が飲めなくなってなって10日後、
ものが食べられなくなって12日後に、息を引き取った。





亡くなったのは、3月1日日曜日午前1時。


死ぬ前の朝まで、庭を散歩し、透明できれいなオシッコをした。
不思議なことに、何か月もずっとうつむいたまま無表情だったのが、
死の当日だけは、しゃんと首を上げ、精気ある表情をしていた。


ただ確実に体力は落ち、体はフラフラで、
最後の半日はさすがに足腰が立たず、それでもどこかへ行こうとして、
はって動いた。


最期の夜も、寝床からはい出ていた。
それを、私が寝かせ直してやった時は、まだ通常どおりの息をしていた。


敷いてあったペットシーツを蹴散らして、畳の上に液状便が広がっていた。
それは、かつて無いことであり、
私は真っ青になり、その処理をするのに必死になった。
処理するのに2時間ほどかかり、その途中、
ハナの鼓動が止まっていることに気付いた。


2日後には、14歳の誕生日だった。

猫爺のエッセイ「お盆玉」


猫爺には耳慣れぬ言葉なのだが、もう普及しているのであろうか、テレビのクイズ番組で「お盆玉」というがあるのを知った。鈍い爺にもすぐ理解ができる。お盆に里帰りをしてきた孫たちにあげる「お小植牙遣い」であろう。
 ネットで検索して教えて貰ったのだが、「お盆玉」という言葉自体は、ある紙袋などを扱う印刷会社が提案して、それに郵便局が乗っかっりポチ袋を売り出したものらしい。なるほど、正月の「お年玉」に対して、盆には「お盆玉」とは郵便局が乗っかりたくなるであろう商魂である。「お盆玉は、郵貯銀行へ」かな?


 猫爺とて、分からないわけではない。年に二度帰って来る可愛い孫の喜ぶ笑顔が見たい。「お盆玉」が習慣化すれば、孫たちもお爺ちゃん、お婆ちゃんに「お盆玉ちょうだい」とねだることが出来るし、貰えるか貰えないか気を揉むこともない。


 だが、遠くの外孫はそれでよいとしても、内孫や近所に孫がゴロゴロ居るお爺ちゃん、お婆ちゃんは大変だろうなあと思ってしまうのは、猫爺が貧しいからであろう。


 誰が決めたのだろうか、お盆玉の商鋪裝修相場というのがあるそうで、小学生ならば1,000円~3,000円、中学生ならば3,000円~5,000円、高校生ならば5,000~10,000円程とか。富山県あたりの裕福なお爺ちゃん、お婆ちゃんなら小学生には百万円程度、中学生には五百万円程度、高校生ならば1千万円以上を相場としている家庭もざらにあるに違いない。


 お盆玉の習慣は、江戸時代からあったというが、それは少し違うのではないだろうか。商家などに奉公する使用人に、小遣い程度の額や品物を与えたのは、日頃安い賃金、または年季奉公の場合は当人は殆ど無報酬で働いているのだから、使用者の外面対策であったように思う。また、それと「お盆玉」とは意味合いが違っているように思う。


 習慣化すれば、都会に住むサラリーマン夫婦なども、孫だけとは限らず「お盆玉」を子供にも与えることになるだろうが、そもそもお盆とは「盂蘭盆」のことで、先祖を供養する行事である。子供や孫を喜ばせる目的の祭りではないのだから、そんな流行など無視してもよいと爺は思うが、世間で習慣化すれば、「そうはイカのキン〇マ」かも。(注・昭和初期のギャグ)